2015年2月8日日曜日

裁判員制度は見直しが必要だ

この記事は今回の2事件の判決を非難するものではありません。

2009年に千葉県松戸市で女子大学生が殺害された事件と同じく2009年に東京・港区で74歳の男性が殺害された事件について,裁判員裁判で死刑判決が下されるも共に高裁で無期懲役となり,最高裁もそれを支持した。
マスメディアの多くは今回の決定に不服のようで,裁判員裁判の評決を破棄した最高裁という書き方をしている。
こう言うと「そうと受け取られないよう丁寧に解説し,最高裁判断をできうる限り尊重している」と反論するかもしれないが,「量刑が重すぎるとされ高裁で否決されていた」と書いていない時点で,マスメディアがどちらの立場で書いており,どちらに市民を誘導しているかは一目瞭然である。

案の定,インターネットでは今回の判決は不満のようで,「では何のための裁判員制度なのか」という意見が多く見られた。
具体的には以下のような意見である。「前例を根拠に裁判員の判決を無視するのであれば裁判員制度など不要ではないか?」,「裁判官に市民感覚を導入することが目的なのだから裁判官は最大限に裁判員裁判の評決を尊重すべきではないか?」,「市民感覚を導入するための裁判員裁判の評決を否定するのなら制度自体が不要ということではないか」
これはもっとな意見である。なぜなら制度導入時,そう宣伝されていたし今もされているからだ。
しかし,実は法律にはその旨表記されていない。
「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」
第一条   この法律は,国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ,裁判員の参加する刑事裁判に関し,裁判所法 (昭和二十二年法律第五十九号)及び刑事訴訟法 (昭和二十三年法律第百三十一号)の特則その他の必要な事項を定めるものとする。

もちろん,これは裁判官側が入れることを嫌がったからだ。本来であればその旨うたわれていないことがおかしい。
しかし,もっとよく考えると上記でもっともと共感した意見は全然もっともでないし,この条文もおかしいことに気づいた。どこがか?

それは私たちが行わなければならないことは「すべての個人が幸福を感じられる社会の実現」であって,決して竪山辰美被告を殺すことでも伊能和夫被告を殺すことでもないのである。

この社会では物事の解決を個ではなく社会に求める。大多数にとって良くないことがあった場合,その責任は社会に帰属させ,制度をもって解決するのである。
この社会では次のように考える。
「死刑を受けなければならない罪を犯した個人が悪いのではなく,死刑を受けなければならない罪を犯させてしまう社会に問題がある。」
つまり,そもそもそういうこと自体が起こらない社会を目指しましょうということだ。

もちろん,これは理想論であり,いまだ社会はその域に達していない。だからその過渡期において死刑制度があることはやむを得ないと考えるし,罪を犯す個人を非難することもやむを得ないことである。
しかし,目指すべきところを置き間違ってはいけない。私たちは両被告を死刑にすることが目的なのではなく,そもそも死刑になるような事件を起こさなくすることこそが大切なのだ。それは一朝一夕で実現できるものではない。しかし,だからといって木を見て森を見ずではいけないのだ。さもないといつまでたっても社会は良くならないからだ。

裁判員制度は必要だ。しかしそれは裁判官に必要なのではなく市民(社会)に必要なのである。
何のために? もちろん,社会をよりよくするためにである。
裁判員制度を通じてお互いにどういうことが悪いことで悪いことをするとどうなるかを学び,さらになぜこのようなことが起こるのかを考え,制度を作り社会をよりよくしていく。一人一人が主体性を持って取り組む社会の実現。それこそが大切なのだ。

今はまだ過渡期である。いずれ裁判員をやることが当たり前の世の中になった時にこそ,この制度の価値が認められるだろう。それまであきらめず社会の理解を求め,この制度を維持していかなければならない。

ところが裁判員制度は今や風前の灯火だ。社会はヒステリックに裁判官に対し社会の意見に背くとは何事かと叫んでいる。ここまで言えばわかっただろう。今回の問題はそもそもに裁判員制度が「市民感覚の導入」を目的としていることにある。だから裁判員制度の見直しが必要なのである。具体的には次の一文の見直しだ。
司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ

なんとまあこれを書いた人の考えが良く分かる一文だ。大上段に構え上から目線で「社会がうるさいから嫌々やりますよ」って書いてある。これではいけない。どうせ上から目線に立つなら次のように考えないといけない。
「社会は愚かだ。社会は目指すべきところを見失っている。俺が社会を正しい方向に導いてやる。」
つまり,裁判官に市民感覚を導入するためではなく,市民に対し司法感覚を教育することを目的とするのである。こうすることで裁判官のプライドを傷つけず,むしろ積極的に社会に広めようとするだろう。この制度はあなたたちにとってとても大切なのですよと。そうすることでさらに自尊心が高まるからだ。

長くなったが次のことが必要なのだ。
1.裁判官に自分たちが不要となる社会こそが理想なのであり,そういう社会を目指そうと教える
2.裁判員制度を利用し,社会に犯罪を考える場を提供することで,自己改良プログラムを作用させる
3.その維持・普及に努めること自体が大切なのだと裁判官に感じさせる一文に改める。具体的には裁判員制度をもっての重大犯罪の発生抑止とする

0 件のコメント:

コメントを投稿